泉涌寺
真言宗泉涌寺派

仏殿
▲仏殿: 徳川家網の再建によるもので重要文化財。運慶作と伝えられる三尊(釈迦、弥陀、弥勒)を安置、また天井には狩野探幽の画が描かれている。


読みは、「せんにゅうじ」。清水寺・東福寺などのにぎやかな寺の多い東山の地にあって、ひっそりとただずむ古刹。皇室の菩提寺であるなど由緒も深く、「御寺(みてら)」とも呼ばれている。古くは700年もの間、門を閉ざしていたこの寺に、今でも湧きつづけている泉は、どことなく神秘的だ。

○泉涌寺の歴史
天長(824〜833)年間に弘法大師が月輪山の麓に庵を結んだことに始まる。当初は法輪寺と呼んだ。その後、僧・神修のための寺として改め、名前も仙遊寺と呼ばれるようになった。しかし、泉涌寺の正式な歴史が始まるのはその4世紀後、嘉禄2(1226)年、朝廷より援助を受けて大伽藍が完成、月輪大師が開基となり創建された。泉涌寺の名はその際に境内に清らかな泉が涌き出したため。さらに勅願寺として天皇家から篤く帰依を受けた。南北朝時代の文中3(1374)年に後光厳院の火葬が行われて以来、前後9代の天皇の御火葬所に当てられ、また、修学院離宮を造った後水尾天皇から明治天皇の父の孝明天皇に至るまで歴代天皇・皇后・皇族の廟所として、皇室の香華院(菩堤所)と定められるなど、天皇家とのかかわりは大変深い。いまでも霊明殿には、歴代の尊牌が奉ってあり、日本で唯一の皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。霊明殿は創建以来幾度も戦火で焼失したがその度に、時の権勢者によってすぐに復興されるという、畏れ多いものであった。なお、現在の仏殿は徳川家網の再建によるものである。

○泉涌寺のみどころ
楊貴妃観音像


楊貴妃観音像
楊貴妃を寵愛した玄宗皇帝が、彼女の死を悲しんで、その顔そっくりに彫らせたものをもらい受け、泉涌寺に納められたものと伝えられている。昭和30年までは、百年に一度の開帳を除いて秘仏とされていた。この観音さまをお参りすれば美人になれるという言い伝えがあり、観音横の地蔵は「願かけ地蔵」として知られ、縁結びと美容にご利益があるとのこと。女性の参拝客が絶えない。

清少納言歌碑
「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」(夜のまだ明けないうちに、鶏の鳴き声をまねてだまそうとしても、(あの中国の函谷関(カンコクカン)ならともかく)あなたと私の逢坂の関を通ることは許しませんよ)という清少納言の有名な歌。清少納言は定子が没した翌年に宮仕えを辞去し、晩年は鳥辺野近くのこの泉涌寺の辺りに隠棲し、定子の眠る鳥辺野の御陵を拝しながら生涯を終えたと言われている。昭和49年11月に、当時の平安博物館館長であった角田文衞氏が、泉涌寺が清少納言と密接な関係があるので、ぜひとも歌碑を建てたいと希望、建立された。



・月輪山泉涌寺
 京都市東山区泉涌寺山内町27
 JR奈良線・京阪本線「東福寺」駅から徒歩20分
 市バス「泉涌寺道」下車徒歩10分
 9:00〜16:30(12月〜2月は9:00〜16:00)
 入山料300円(御殿の拝観は別途300円)




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