落柿舎

落柿舎


庵には柿の木が40本あり、商人が立木ごと柿を買い取ろうとしたところ、夜中に風が吹いて多くの実が落ち、青ざめて駆けつけた商人に庵の主が代金を返した。だから、落柿舎。主である俳人、向井去来はこう詠む。「柿主や こずえはちかき あらし山」。ここを訪れるならやはり柿のなっているころがいい。田園風景の中、わらぶき屋根がよくなじむ。庵には投句箱があり、優秀な作品は俳句誌「落柿舎」に掲載される。一句詠んではいかがであろうか。

○落柿舎の歴史
貞享3(1686)年に、向井去来が営んだ隠棲所。当時は現在とは少し離れた場所にあったと推定されている。元禄4(1961)年4月18日から5月4日まで松尾芭蕉も逗留し、滞在記『嵯峨日記』を執筆している。去来は「落柿舎制札」を定め、俳諧道場として農夫・町民も自由に出入りしていた。去来の没後は荒廃し、場所もわからなくなっていたが、明和7(1770)年、俳人の井上重厚が現在地に復興、土地がもともと天龍寺の塔頭・弘源寺跡であったので、弘源寺の寺僧の隠棲所となり、捨庵と呼ばれた。捨庵は、明治時代になって落柿舎として再興、現在は保存会ができ、破損がひどかったので、やや後方に建てかえられた。当時、去来が庵にいることを知らせるためにしていたように、今でも土間の壁には蓑と笠が掛けられてある。

・向井去来
芭蕉十哲の一人。有名な儒医で、天文家でもあった向井元升の次男として生まれ、福岡の黒田家に使えたが辞任し、芭蕉について俳諧の道に進んだ。落柿舎から北100mほどの路傍には「去来」とだけ彫られた向井去来の墓があり、遺髪が埋葬されている。本当の墓は真正極楽寺(真如堂)にある。


○落柿舎の句碑
・柿主や こずえはちかき あらし山
去来の句碑。これは安永元(1772)年、井上重厚がたてたものである。

・五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡
「嵯峨日記」の最尾にしるした芭蕉の句で、庭のなかほどにある。「嵯峨日記」は宝暦3(1753)年に刊行された。

・牝鹿なく 小倉の山の すそ近み
      ただ独りすむ わが心かな
落柿舎の裏側、杉木をへだてた径のほとりに西行井戸の跡があり、その傍に立つ西行の歌碑。

・足あとも はづかし庵の わかれ霜
山鹿栢年

・何もない 庭の日さしや 冬来る
保田奥重郎

・十三畳半の 落柿舎 冬仕度
工藤芝蘭子

・春の雨 天地ここに 俳人塔
平澤興



・高松山祗王寺
 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩15分
 9:00〜17:00
 拝観300円




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