乙訓寺
真言宗豊山派

本堂と牡丹




・大慈山乙訓寺
 長岡京市今里3-14-7
 阪急京都線長岡天神駅徒歩20分
 7:00〜18:00
 拝観300円
時は飛鳥時代。仏教が伝わって間もないこのころ、聖徳太子が乙訓の地に寺を創建した。それから200年後、弘法大師空海と伝教大師最澄がこの寺で最初の出会いをする。創建と現在との間に隔たる年月、約1400年。歴史あるこの寺を知るものはすっかり少なくなってしまったが、毎年、夏の訪れを感じる時期になると、2000株ものボタンが咲き誇る。奈良にある花の寺、長谷寺の末寺。京都にある乙訓寺は、「牡丹寺」として親しまれている。

○乙訓寺の歴史
乙訓(おとくに)という地名は、葛野(かどの)郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」(乙訓)としたのがおこりといわれる。第26代継体天皇は518年、都を乙訓に移された。(乙訓寺は当時の宮跡として有力視されている。)
日本に仏教が伝来したのは550年ころ。乙訓寺は620年ころの創建と見られ、推古天皇勅願、聖徳太子創建とされる。設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われているという。
784(延暦3)年、都は奈良から長岡京に移り、乙訓寺は都の鎮めとして重要視された。悲劇の皇太子、早良親王がこの寺に無実を訴えながらも監禁されたのはその翌年。建都の長官・藤原種継が暗殺され、暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は断食し身の潔白を示そうとしたが、流罪処分となり護送途中に絶命した。長岡京ができてわずか10年で遷都されるが、その原因となった天皇の母、皇后の死、皇太子の重病、悪疫の流行、天変地異の発生、これらもろもろのことが親王のたたりとも言われた。今、全国いたるところにある「御陵(ごりょう)神社」「春秋の彼岸行事」(大同元(806)年始修)も早良親王の怨霊鎮めが元。また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
弘法大師は弘仁2(811)年、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住。最澄が空海を真言の法を教えてほしいとこの寺を訪れたのはそれから1年後のこと。日本仏教の流れに大きな変革を与えた瞬間である。最澄はその後も空海との交流を深め、2人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立。また、嵯峨天皇は弘法大師の新しい法に期待され、乙訓寺は鎮護国家の道場として整備された。大師はこの寺で仏典を研究される傍ら、中国から持ち帰ったみかんの木を栽培し(みかんは当時、西域渡りの珍果)、狸の毛で筆を作るなどした。今でも、客殿前にはみかんの大樹がある。また、醍醐寺に「狸毛筆奉献帳(伝空海)」も現存している。
内紛や兵火で衰微した乙訓寺だが、隆光(長谷寺で就学後に江戸に出て、将軍綱吉の信任が厚かった僧。生類憐みの令を進言した悪僧として有名)が乙訓寺を請い受け自ら住職となり、綱吉の援助のもと復興を尽くした。当時の寺域は八千二百余坪あったという。
明治の廃仏毀釈、第二次世界大戦後の農地改革など、苦難の経過をたどることになるが、「今里の弘法さん」と親しまれた伝統と牡丹の名所として知られている。

・合体大師像(本尊)
秘仏で、姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。古文書によると、空海が自分の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々に彫った。
出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像は制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想・神仏同体説に基づく僧形八幡像といわれ、東寺、薬師寺、東大寺で同じような物が国宝に指定されていて、調査すれば国宝級のものと言われている。





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