勧修寺
真言宗山階派

書院
▲書院: 江戸時代初期の典型的な書院造。襖には土佐光起の作と伝わる、「竜田ノ紅葉図」、「近江八景図」が描かれているが、残念ながら非公開。


「かじゅうじ」と読むのが正しいとされているが、「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも呼ばれる。その昔、この辺り一帯は貴族の私邸や別宅が点在する、別荘地。官庁街でもある都とはまたひと味違った、趣のある地であった。そのなかでもひときわ古い歴史を持つ勧修寺は、かつてやんごとなき人々が風雅な遊びに興じた美しい庭で、今もなお人々をひきつけている。

○勧修寺の歴史
昌泰3(900)年、醍醐天皇が生母・藤原胤子の菩提を弔うために、胤子の祖父・宮道弥益の私邸を御願寺と改めたのが始まり。開山は承俊律師と伝えられる。勧修寺の寺名は、醍醐天皇の祖父である藤原高藤のおくり名より。天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法王・親王が相次いで入寺、「山科門跡」と呼ばれ門跡寺院として繁栄したが、応仁の乱で全焼し、さらに秀吉の領地没収などで衰えた。現在の伽藍は江戸時代、徳川氏や天皇家の寺領寄進などにより再興されたもの。例えば、本堂は江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を賜って造られたとされ、寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重文)は元禄10(1697)年に、明正天皇の旧殿を賜わったものである。なお、本堂に奉られている本尊は千手観音像で、醍醐天皇と同じ背丈に作られている。

○勧修寺のみどころ
氷池園

氷池園


氷池園
およそ2万平米もある「氷室池」のまわりに広がる池泉回遊式庭園。公開されているのはこの庭園のみ。大小3つの島が浮かび、東山を借景に15の景勝が設けられ、「典雅の極致」と評する書もあるように、平安貴族の庭の代表的なものといえる。実際に舟遊びにも使われ、また、その頃の呼び名は「来栖野氷室の池」と呼ばれ、毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀の実りを占ったともいわれている。この池は、かつてさらに南にも広がった池であったが、文禄3(1594)年、豊臣秀吉の伏見城築城の際に秀吉の怒りにふれ、寺領の大半を没収され、氷室池も新道建設の際に大半が埋められてしまう。江戸時代に徳川氏の帰依を受けて現在の形に再興が図られ、天明6(1786)年の「捨遺都名所図絵」にも”氷室池十五勝”の記述が見られる。そこに描かれた「翆微滝」は今も枯れ滝として残っている。 春の桜、夏のスイレンが特に美しい。

大斐閣


大斐閣
観音堂。昭和6年の再建。

勧修寺灯篭


勧修寺灯篭
徳川光圀の寄進と伝わる灯篭。雪見灯篭、水戸灯篭とも呼ばれる。丸みをおびたかさが特徴。まわりには樹齢750年のハイビャクシンの木がある。



・亀甲山勧修寺
 京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
 地下鉄東西線「小野」駅下車徒歩5分
 9:00〜16:30
 拝観400円




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