祗王寺
真言宗大覚寺派

本堂
▲本堂: 明治28(1895)年に当時の府知事であった北垣国道が茶室を寄進したもの。富岡鉄斎他が復興した。堂内には本尊と平清盛、祇王、その妹の祇女、母の刀自、そして仏御前の木像が安置されている。


平家物語に登場する悲恋の女性、祇王にちなんで名づけられた祇王寺。嵐山の奥のほう、竹と楓に囲まれた、どこか女性的な感じを受ける草庵である。庭は苔のじゅうたんで覆われ、つくばいを流れ落ちた水が小川となり、楓の足元を大きくうねりながら流れていく。もちろん紅葉の名所としても名高い。「あるといいな、とおもうところに、ちゃんと紅葉があるんです」と評されるこの寺の紅葉の見ごろは、少し遅めの12月上旬。それは庭苔の緑に、散り始めた紅葉が朱をさして美しいから…

○祗王寺の歴史
法然上人の門弟・良鎮によって建てられた往生院の境内地にあったが、往生院が荒廃した後は小さな尼寺として残り、祇王寺と呼ばれるようになった。江戸末期に廃寺となるも、明治28(1895)年に当時の府知事であった北垣国道が茶室を寄進して再建した。現在では大覚寺の塔頭となっていて、紅葉の名所、平家物語の悲恋物語の舞台として知られる。

・平家物語「巻第一 妓王の章」あらすじ
 白拍子(※)であった祇王は時の権力者・平清盛の寵愛を受け、彼の館で幸せに暮らしていた。
 あるとき、清盛に歌舞を披露したいという白拍子、仏御前が現れる。ただの白拍子に過ぎない仏御前を清盛は追い返そうとするが、遠路はるばるやってきた彼女を見かねて、心の優しい祇王がとりなし、仏御前は清盛に舞を見せることになる。
 しかし、これを見た清盛は心を奪われ、仏御前を寵愛するようになってしまった。祇王の座を奪う気持ちのない仏御前は辞退しようとする。しかし、それに気づいた清盛は、邪魔な祇王を追放してしまう。
   萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の花 いづれか秋に あわではづべき
とは館を出る祇王がせめてもの忘れ形見にと詠んだ句である。
 さらに翌春、清盛は退屈している仏御前を慰めるためといって、祇王に仏御前の前で舞を披露することを強要する。祇王はあまりの屈辱に死を決意するも、五逆罪になることを母親が説き、やむなく清盛の館へ向かう。
   仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と舞い踊り、諸臣の涙を誘った。
 祇王は都に居ればまた同じような思いをしなければならないと、母、妹と共に尼となり、嵯峨の山里で仏門に入る。当時祇王21歳、妹の祇女19歳、母の刀自45歳であった。
 ある秋の夕べ、仏御前は祇王の元を訪れる。祇王の運命を自分に重ねて世の無常を思い、清盛の館を抜け出して尼となっていた。
 祇王一家と仏御前は、余念無く仏道に励み、みな往生の本懐を遂げる。

(※)白拍子:院政期(平安時代の後期)に最も活躍していた女性芸能者で、「今様」と呼ばれる歌、そして白の水干に立烏帽子(たてえぼし)、白鞘巻(しろさやまき)という男装で男舞と呼ばれる舞を舞っていた。


○祗王寺のみどころ
控の間の吉野窓


控の間の吉野窓
吉野窓とはこのような丸窓のこと。
影が虹の色に表れるので一名虹の窓とも呼ばれる。



・高松山祗王寺
 京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32
 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」下車徒歩15分
 9:00〜17:00
 拝観300円




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