銀閣寺
(慈照寺)
臨済宗相国寺派

観音堂
▲観音堂: 銀閣と呼ばれ、教科書でもなじみが深い、慈照寺の象徴というべき建物で、国宝に指定されている。義政公は自らの宗教観を託し、一層を心空殿、二層を潮音閣と名づけた。室町期の代表的な楼閣庭園建築で唯一現存するものとして知られている。


学校の前の道をつきあたるまで登ったところにあるお寺。私たちの身近なところに、500年以上の歴史を持つ古刹がある。大文字のはるか下、そんなに遠い土地ではないはずなのに、長くて高い垣根の道を進んでいくと、どことなく別世界へのプロローグのようにすら感じる。時の為政者が、混沌としてゆく世を悲しんで、文化に癒されるために作った山荘。いまでもその美しい庭と、それに映える質素なお堂は、私たちの心に静かに訴えかけて、やまない。

○銀閣寺の歴史
室町幕府8代将軍足利義政の時代、部下の対立や義政の妻日野富子の政治への口出し等で政局は混乱し、後継者争いから応仁の乱が起こった。義政は政治に嫌気を感じたようで、政治の世界から逃れ静かな生活を送るため、応仁の乱で焼失した浄土寺の跡地に、文明14年(1482年)に東山殿を造営。東山殿を築造するに当たり、義政は祖父である3代将軍義満の北山殿金閣に劣らぬ建築を意図した。とくに東求堂は義政が諸芸に優れた人々を集めた文化サロンとなり、東山文化の源となる。義政の没後、義政の法号慈照院に因み慈照寺と名付けられ、「銀閣」の名前は江戸時代になって北山の「金閣」に対してこう呼ばれるようになった。その後、火災に遭い、東山殿当時からの遺構は観音殿(銀閣)、東求堂及び庭園のみであるといわれている。

○銀閣寺のみどころ
銀砂灘・向月台


銀砂灘・向月台
銀沙灘は月の光を反射させるためだとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説があるが、室町時代ではなく、近世以後の発想であるといわれている。

方丈


方丈
江戸中期の建造。本尊として釈迦牟尼仏が安置され、正面の額には「東山水上行」を掲げ、内部には江戸期の南宋画家の巨匠、与謝蕪村、池大雅の襖絵を所蔵。方丈から見る月待山はまさに絶景。

東求堂(国宝)


東求堂(国宝)
義政公の持仏堂で、一層の入母屋造り檜皮葺きの、現存する最古の書院造り。特に付書院と違棚は有名。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。北面東側の四畳半は、同仁斎とよばれ東山文化を生み出す舞台となり、また草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれている。

銀閣寺垣


銀閣寺垣
総門から中門まで長さ約50メートルの参道。4mほどもある高い垣はこれからから訪れるすばらしい光景へといざなう。
お茶の井


お茶の井
足利義政の茶の湯にも用いられた湧き水で、現在でもお茶会に用いられている。



・東山慈照寺(銀閣寺)
 京都市左京区銀閣寺町2
 市バス「銀閣寺道」バス停下車徒歩12分・「銀閣寺前」バス停下車徒歩7分
 夏季(3/15-11/30)8:30〜17:00・冬季(12/1-3/14)9:00〜16:30
 拝観500円




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