円通寺
臨済宗妙心寺派

山門
▲山門: 左側にある碑には「不許酒肉五辛入門」と書かれている。五辛とは、忍辱(にんにく)・葱(ねぎ)・韮(にら)・浅葱(あさつき)・辣韮(らっきょう)の辛みや臭みのあるもののこと。酒肉五辛を飲食することによって起こる色欲や怒りの心などを避けるために、これらを禁じた仏教語である。


「そもそも幡枝なる土地は、鞍馬街道を松ケ崎の北の所で、山を一つ越えた所に当る静寂なる一仙境である。その一帯の風景が、夙に後水尾上皇の御気に召していたので、修学院離宮完成以前、ここに一応の御山荘が設けられた。その一帯は三方が小山にかこまれており、俗塵を離れた感じがするのである。東方は眺望が開けて、はるかに雄大な比叡山の偉容に相対しており、朝暮の景趣は、えも言われぬものがあつた。」

○円通寺の歴史
江戸時代初期、後水尾上皇は比叡山の景色を得るために各地を探した末、この地にたどり着き、幡枝離宮を造営した。寛永16(1639)年のことである。庭園も後水尾院が設計したとされるが、水利が悪いために大池泉庭園を造ることができなかったため、明暦元(1655)年、比叡山麓の修学院に新たなる離宮の造営を開始、幡枝離宮は勅願所となる。円通寺としての歴史は延宝6(1678)年、霊元天皇の乳母である円光院瑞雲文英尼大師が妙心寺第10世の景川宗隆を勧請し、尼寺として創建された。本尊の聖観世音菩薩は定朝の作と伝えられる。当時は茶室などもあったが、今は方丈、客殿、庫裏があるのみである。境内には後水尾天皇以降の歴代皇族の御尊碑が祀られている。後水尾院が愛した景色は今の人々の心をも動かしているが、近年の開発によってその風景が失われつつあり、問題の声が上がっている。

○円通寺のみどころ
高浜虚子の句碑


高浜虚子の句碑
「柿落葉 踏みてたずねぬ 圓通寺」と詠まれている。
円通寺は柿の寺としても知られる。



・借景庭園
 円通寺の方丈の前には借景式枯山水平庭がある。
 昨年、小玉さんが50周年記念冊子の中で論じていたテーマであるが、借景とは、文字通り景色、円通寺でいうところの比叡山を庭の遠景として借り入れたものである。前景の平庭は苔で覆われ、その奥に岩、生け垣、混ざり垣の順に配置されているが、これらは遠近感を失わせるために仕組まれたものである。例えば、生け垣はさほど高いようには見えないが、実際には1.5mという、人間の身長ほどの高さがあるというからでも実感できよう。
 さらに、垣の効果で、混ざり垣の向こうはあたかも断崖になっているようにすら感じられる。比叡山との間に存在する家々、いわば邪魔ものは、生け垣という仕切りによってことごとく排除されてしまっている。いく筋かの杉の木は間隔を置いて植えられ、下枝は取り払われている。空を隠すこと、比叡山を遠くに見せること以外に、一切の主張をしてないのだ。つまり、円通寺庭園においては、枯山水庭園は正面にそびえる雄大な比叡山の姿を引き立たせるための、脇役のようなものなのである。
 方丈から見える景色は、庭園および比叡山の様子によって違う景色になるのは当然のことであるが、このように奥行きを持った風景であるため、円通寺から比叡山までの数kmにある空間の状態によっても刻一刻と変化する。よく晴れているのが一番よいというわけでもない。雨であったとしても、かすんで輪郭がぼやけた山と、薄暗くなった枯山水によって描かれた風景は、水墨画に似たしっとりとした情感を与えるのである。かつて、この寺では撮影は禁止されていた。それはただ単にここの風景が「門外不出のもの」というだけでなく、写真によって時間を切り取られた庭園は、本当の「円通寺庭園」を写しだしてはいないからではないか、と思うのである。
 できるなら、部屋の奥のほうで景色を望みたい。縁側の柱のアクセントは、借景庭園のすばらしさを立体的に語りかけてくれる。




・大悲山円通寺
 京都市左京区岩倉幡枝町389
 市バス「深泥池」バス停下車徒歩20分・京都バス「円通寺道」バス停下車徒歩10分
 小学生以下の拝観不可
 10:00〜16:00
 拝観500円




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