大覚寺
真言宗大覚寺派

宸殿
▲宸殿: 江戸時代、御水尾天皇より下賜された寝殿造りの建物で、重要文化財。徳川2代秀忠の娘・東福門院和子が、女御御所の宸殿として使用していたもの。桧皮葺の入母屋造りで、廊下などはうぐいす張り。内部も豪華で、「牡丹図」「紅梅図」など狩野派の絵で飾られ、天井や破風板などの装飾にも注目したい。なお、平安時代初期までそうであったように、右近は橘だが左近は「梅」である。


時の天皇がこよなく愛した土地に、離宮を建てて皇后にプレゼントしたことがおこりの大覚寺。めぐらされた回廊を歩いていると、決してやんごとなき人々ではなくとも、みやびな雰囲気を味わうことができる。お堂の外も古き良き景色がそのままに美しく、映画の中に入ったような気分にさせられる。現代の景色に飽きたら、大覚寺はいかが。

○大覚寺の歴史
延暦13(794)年、桓武天皇は平安京に遷都。その20年後に、嵯峨天皇が即位する。唐の文化に憧れていた天皇が、唐の都・長安の北にある景勝地、嵯峨山になぞらえて、葛野の風光明媚なこの地を「嵯峨」と名づけ、ここに皇后の新居にと嵯峨院を建立した。これが大覚寺の前身・嵯峨離宮。嵯峨天皇が没した後は衰微するが、貞観18(876)年になって嵯峨天皇の長女・正子内親王が、開山に順和天皇の皇子・恒寂入道親王を迎えて大覚寺を創建する。歴代の法親王が入寺し、特に後宇多天皇は大覚寺に宮殿を造りここで院政を執って、伽藍も整備され大いに栄えるが、それもわずかで、建武3(1335)年、兵火で全焼する。間もなく後宇多天皇の皇子・性円法親王が24世となり再興、明徳3(1392)年には南北朝の対立に終止符を打つための講和会議も大覚寺で開かれた。再度、他の寺院と同じように応仁の乱によってほぼ焼失するが、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進、江戸時代には後水尾天皇の弟や皇子が入寺するなどして再興され、「嵯峨御所」と呼ばれて格式高い門跡寺院として栄えた。昭和13(1938)年には国指定史跡になり、現在では近畿36不動尊霊場の第13番札所として参拝者も多く、また近くに建物も少なく、江戸時代の雰囲気がそのままに伝わるため、境内ではたびたび時代劇の撮影が行われ、映画やテレビなどでおなじみの風景になっている。

・嵯峨天皇 [延暦5(786)年〜承和9(842)年]
平安遷都を行った桓武天皇が大同元(806)年に薨去し、兄の平城天皇があとを継ぐが、病弱であったために大同3(809)年に嵯峨天皇が即位。平城上皇派は平城遷都を画策して権力の回復を謀り、さらに軍事動員も行う(薬子の乱)が、間もなくこれを鎮圧。政治面では律令制の整備、蔵人所や検非違使の新設など改革を行い、文人の積極登用や行事の創始など、長く続く平安京の礎を作った。また、空海、橘逸勢とともに三筆に挙げられ、漢詩や和歌、琴、笛などにも通じる、優れた文化人であった。嵯峨天皇は譲位後の承和元(834)年に冷然院から大覚寺に移り、承和9(842)年に没するまで過ごす。


・後宇多天皇 [文永4(1267)年〜元亨4(1324)年]
後宇多天皇の祖父・後嵯峨上皇は次に院政を行う上皇を、後深草天皇か亀山天皇か決めないまま崩御してしまったため悶着がおこる。結果的に亀山上皇が院政を行うことになり、それに伴って後宇多天皇は文永11(1274)年に8歳で即位。後宇多天皇は13年9ヶ月在位したあと、後深草上皇の皇子(伏見天皇)に譲位したため、2つの皇統が生じる。後宇多上皇は大覚寺において院政を行ったため亀山・後宇多の皇統を「大覚寺統」、対して後深草・伏見の皇統を「持明院統」と呼ぶ。両統は対立を始め、鎌倉幕府の調停後も対立は続き、南北朝時代へと突入することになる。


・般若心経
弘仁9(818)年の疫病大流行を憂慮した嵯峨天皇は弘法大師の勧めで、自ら般若心経を写し、すぐに疫病が収まったことから、心経信仰が広まって、大覚寺は心経写経の根本道場として知られている。天皇の書いた般若心経は、現在も大覚寺心経殿にのこる。


・いけばな嵯峨御流
嵯峨天皇は大沢池に浮かぶ菊ヶ島に自生していた野菊に心を留めて持ち帰り、花瓶に投げ入れた。するとおのずとその趣が「天・地・人」のようになったといわれ、天皇曰く「花を愛でるものは、これを範とすべし」。このことから大覚寺は生け花発祥の地といわれ、いけばな嵯峨御流の総司所であり、華道が大変盛ん。嵯峨菊は茎と花びらの線が細く、繊細な感じを受ける。仕立てには決まりがあり、「箒作り」といって一鉢に3本を立て、およそ2m、先端3輪、中5輪、下7輪に仕立てる。偶数でないのは、「人生は何事も割り切れない」という仏教観からと伝わる。水盤と花留は大沢池と同じように二島一石が基本で、天皇の心が今も嵯峨御流に息づく。毎年、菊の季節になると、回廊などで鑑賞することができる。




いげばな
○大覚寺のみどころ
五大堂


五大堂
江戸時代中期に造られ、本堂。不動明王を中心に本尊の五大明王を安置。正面・側面とも5間で、東面に池に張り出す広いぬれ縁があり、大沢池の眺望が美しい。

正寝殿


正寝殿
かつて後宇多天皇が院政を行った部屋である「御冠の間」などがあり、桃山時代の再建。書院造で12の部屋をもつ。



・嵯峨山大覚寺
京都市右京区嵯峨大沢町4
市バス「大覚寺」バス停下車すぐ
9:00〜16:30・拝観500円




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