平等院
(単立寺院)

鳳凰堂
▲鳳凰堂: 阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊からなり、建物の大屋根に鳳凰が飾られていることと、建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ているところから鳳凰堂と呼ばれている。壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれる。建物は東向きで、参拝者は阿弥陀仏を拝むと西方浄土を向くことになる。


京都から少し離れたところ、流れの速い宇治川のほとりにある、極楽浄土の世界。ちっぽけな10円玉の中に細緻に刻まれたお堂の姿が、池の向こうに堂々と、優美に構えている。権力者がこの世の終わりを信じたがために絢爛豪華に建てられた鳳凰堂ではあるが、水面に揺らめきながら映る姿を眺めていると、今の時代まで世の中が終わっていなかったことに、喜びもひとしおである。

○平等院の歴史
釈迦の入滅後二千年を経た世の中、飢饉、日照り、水害、地震、疫病の流行、僧兵の抗争という災害や事件の多かった時代に、広く信じられた末法思想。浄土信仰が流行し、貴族も僧侶も民衆も極楽往生を願って阿弥陀仏に救いを求めた。その末法初年にあたる永承7(1052)年に、「仏の救済はすべてに平等」、という意味をこめて平等院は完成する。
もともとは長徳4(998)年に関白・藤原道長が左大臣・源重信の夫人から譲り受けた別業「宇治殿」であったが、道長亡きあと、藤原頼道が五間四面の本堂を建立、大日如来を本尊として仏寺と改めた。
のちに「鳳凰堂」と呼ばれる阿弥陀堂は翌年の天喜元(1053)年に落成。平等院の創建当時は、左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられ、堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様、柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが鮮やかに描かれてあった。阿弥陀如来坐像が安置され、壁と扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれ、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のようであったといわれる。
さらに伽藍も整備され、頼道によって寄進された荘園や、藤原氏の氏寺としての地位もあって興隆を極めていく。
しかし、治承4(1180)年の源平の騒乱、建武3(1336)年の宇治合戦、文明18年(1486)年の山城国一揆と三度もの大きな戦乱によって大きく衰退。
明応年間(1492〜1501)になって浄土宗僧侶の栄久上人が浄土院を開いて復興に努めた。創建より天台宗寺門派であった平等院はこのときより浄土宗となるが、承応3(1654)年に京都にある天台宗の寺・住心院の僧が平等院に移り、現在、浄土宗の浄土院と天台宗の最勝院が平等院を管理している。
1000年の時を経て残るのは鳳凰堂、観音堂、鐘楼のみであるが、昭和26(1951)年に鳳凰堂が10円玉の図柄に選ばれ、平成6(1994)年には世界文化遺産にも登録、藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として親しまれている。さらに、平等院には数多くの国宝や重要文化財があるが、平成13(2001)年に完成した鳳翔館にて、まじかに見ることができるようになった。

鳳凰堂

○平等院のみどころ
阿弥陀如来坐像


阿弥陀如来坐像
鳳凰堂に安置。平安後期最高の仏師として名高い定朝(じょうちょう)の作で、現存する定朝の唯一の作品。日本独自の寄木造りで純和様。丈六(身の丈が一丈六尺(4.84m)の意味で、坐像なのでその半分の八尺(2.73m))の威容で、国宝に指定されている。

観音堂


観音堂
創建当時は本堂の建つ場所だったといわれ、鎌倉時代前期に再建された建造物。法橋徳応の二天像、不動明王像が祀られている。

・鳳翔館の文化財たち
数多くの文化財が収められた平等院ミュージアム「鳳翔館」で、特に見ておきたい文化財を紹介したい。
鐘楼


鐘楼
「姿の平等院鐘」として「天下の三名鐘」の一つとして有名。てっぺんを飾る竜頭、宝相華唐草を背景に描かれる鳳凰や踊る天人に注目したい。

鳳凰


鳳凰
南北両端に据えられていたもので、国宝に指定されている。鳳は雄、凰は雌で、中国に棲んでいるといわれる空想上の鳥。

雲中供養菩薩像


雲中供養菩薩像
柔らかな動きが感じられ、なんだか楽しそうである。舞を舞う像、楽器を奏でる像、法具を持つ像、合唱する像…と、52体のうち、51体までが国宝に指定されている。定朝の工房で作られたもので、もともとは中堂内部の小壁に掛けられていた。



・平等院
 京都府宇治市宇治蓮華116
 京阪宇治線「京阪宇治」駅下車徒歩10分・JR奈良線「宇治」駅下車徒歩10分
 8:30〜17:30(12月〜2月は9:00〜16:30、鳳凰堂は5月3・4・5日は拝観停止)
 鳳翔館入館及び平等院入園600円・鳳凰堂拝観500円




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