餘部鉄橋
(餘部橋梁)

餘部鉄橋


端数の民家という意味の「餘戸」が変化したといわれる、「餘部」の集落。冬になれば雪は深く、三方を険しい山に囲まれ、目の前に日本海の広がる小さな平野の中の、そのまた小さな集落のはるか上に、餘部鉄橋はそびえ立つ。ローカル色あふれる山陰本線は、潮風の吹き抜けるのどかな景色の空のほう、ゆっくりと走っていく。

○餘部鉄橋の歴史
この鉄橋はアメリカ人技師の設計で、明治42(1909)年に着工し、2年の歳月をかけて44年に完成、東洋一の鉄橋としてデビュー。山陰本線で最大の難工事であり、総工費33万円(現在の原簿価格では2億円以上)、人夫延べ25万人が投じられ、犠牲者も、工事中2人が転落死、83人が負傷した。資材の調達も非常に困難で、使用された鉄材はアメリカから輸入したものを使い、餘部沖でハシケに移し陸揚げされたこともあった。しかし、この鉄橋の竣工により、明治45年3月1日、山陰本線は開通することになる(福知山・出雲今市(現・出雲市)間)。それまでは山陰地方の交通はわずかに汽船のみであったが、福知山において京都線(現・山陰本線)、阪鶴線(現・福知山線)と接続し、因幡・伯耆地方と京阪方面の交通はおよそ15時間程度に短縮された。「本邦鉄道大幹線と連絡する事となり、ここに山陰道諸州は人文の啓発に産業の発展に、一大長足の進歩を促す事となれり。」とは明治45年6月1日の国民新聞である。

・客車落下事故
慰霊観音像昭和61(1986)年12月28日13時24分、餘部鉄橋から、回送中のお座敷列車「みやび」の客車7両が折からの突風にあおられ、鉄橋より転落。真下にあったカニ缶詰加工工場を直撃し、工場で働いていた主婦ら5人と最後尾にいた列車車掌の計6人が死亡、6人が重傷を負った。旧国鉄からJRに移行する過渡期に起こった事故で、風速25mを示す警報装置が作動していたにもかかわらず、規定どおり列車を停止させなかった、人為ミスによるものと見られる。最大の犠牲者のでたカニ加工工場のあった場所には、慰霊の観音像が建っており、そばに、線香、ローソク、マッチや、事故に関する参考文献、写真がはいったボックスが設けられている。この事故を教訓に、荒天や強風時はこの橋に設置された風速計の基準値(風速20m/s)を超えると自動的に信号が赤になり、列車は運行できなくなった。現在ではさらに、風除けのついたても設置されている。

○餘部橋梁の概要
高さ41.45m、長さ309.42m、塗装面積21,382u、総工費331,535円、山陰本線の鎧・餘部間(単線)に架かる、13連の上路プレートガーダー形式のトレッスル橋である(製作所はアメリカンブリッジ)。 トレッスル橋とは、鋼鉄製の櫓状のトラス構造をしている橋脚のこと。下を流れる河川の流水量がほとんど無いが、地面からの高さが高いところに架かる橋梁で用いられる。珍しい方式の橋だが、他には宮城県仙台市青葉区にある第2広瀬川橋梁(仙山線の陸前白沢・熊ケ根間)などがある。 餘部鉄橋は山と山の谷間を結ぶ形の鉄橋であり、この下には国道178号線がクロスしている。なお、鉄道写真の撮影スポットとして大変有名であり、雪の降る季節は格別美しい。 「東洋一の高さを誇っていた『餘部橋梁』は、トレッスル構造のかなり思い切った構造物だったのだが、線路を高い位置にあげてトンネルを短くする目的で造られたのである。これは陸橋で、水中に橋脚を建てた橋梁ではないので、見た目ほどには費用はかかっていない。低い位置を通る案と比較して、建設費はかなり安くなったはずである。(中略)なにしろ艦砲射撃一発で破壊できるし、破壊されると改修も迂回線を造ることもできない。日露戦争前だと、もちろんこのような橋梁は造られていないだろうが、日露戦争後には、日本海側については鉄道を海岸線沿いに通すのは平気になった。」(「続・事故の鉄道史」佐々木富泰・網谷りょういち共著) このように、この地が鉄道敷設に向かない急峻な地形の連続であり、高い橋梁は苦肉の策であったといえよう。

○餘部周辺のみどころ
JR餘部駅


JR餘部駅
昭和34年4月16日、小学生まで石運びしてできた。鉄橋の西側に位置する無人駅。1日の乗降客数は200人ほど。

あまるべ温泉


あまるべ温泉
鉄橋の近くにある温泉施設。鉄橋を見ながらの温泉も一風変わった入り方かも知れない。

余部灯台


余部灯台
標高284m。日本一高い所にある。現在は無人灯台。平家落人伝説地の御崎地区はここより山道を4kmほど行ったところ。



・餘部鉄橋
 兵庫県城崎郡香住町餘部
 山陰本線「餘部」駅徒歩10分




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